海風が躰に染みる十一月、乾燥し罅割れた指先に息を吹き掛けつつ、赤真珠は家の玄関戸を開けた。真鍮のドアノブには鈍い
冷ややかさがあり、先程折角手に集めた体温は容易く消えてしまう。そして冷酷な廊下が足の裏からも容赦なく熱を奪って行くのだ。
白と水浅葱のボーダーが入った気に入りの靴下の薄い生地を隔てて、床から空気から冷たさが絡みつく。塩っ気でべたついた髪を
掻き上げ、階段を上った。
鴎碧は二階の寝室で横になっていた。南に向いた小さな窓から外を見詰めて、寝息の様な細く浅い呼吸をしている。その睛の先に
海がある事を想像して、赤真珠は弟の未だ軟らかい栗毛をそっと撫でた。
「お家はこんなに海に近いのに、家にいるばかりでは詰まらないでしょう、
元気になったら、又浜に行きましょうね。
そして瑪瑙の模様の貝殻や、星の欠片を拾いましょう」
しかし鴎碧は吸い込まれるような夜闇に黒の虹彩を据えた儘、首を縦とも横ともつかない方向に振っただけで、その息と同じくらい
にか細い声でこう言った。
「姉さん、僕、月が欲しい」
月、と、赤真珠は訊き返した。そう、月、と、鴎碧。
「だって、月はとっても遠い処に在るのよ
この町から隣町を通って、その又隣町に届くぐらいの梯子を掛けても昇って行けない、
遠いお空の上にあるの」
今度は横に首を振る。
「嘘だ、僕知ってるもの」
そう言って、鴎碧は枕の下から古びた絵本を取り出した。赤真珠は思わず小さく驚きの声を漏らす。鳶色格子縞の布の装丁に、
殆どが剥がれ落ちた金の箔押しのタイトルが薄っすらと読み取れる。彼女自身幼い頃何度手に取った御伽噺だ。ぼろぼろになるまで
読み返した挙句に、物語の中盤の頁がすっかり取れて何処かに行ってしまい、本棚に仕舞ってからは所在どころか存在ですら忘れて
しまっていた物だった。それを、まさか弟が読んでいたなど、考えてもみなかった。
一方其れが元々は姉の物だとは知らない鴎碧は、得意になって頁の欠けた絵本を捲っている。
「月はね、あの一番高い松の木に引っ掛かるんだ」
あら、お月様を捕まえるのは簡単な事ですわ。
私、何時も此処から見ていましたの。
お月様は毎晩教会の屋根の向こうから現れて、
大運河に沈む迄に
少しの間丈、あの楡の木の枝に引っ掛かるのです。
お月様の大きさは丁度私の親指の先程で、
檸檬の色をしていますのよ。
ですからあの木に梯子を掛けて待っていれば、
お月様を捕まえる事が出来ますわ。
道化師はお城の職人に言い付けて、硝子の『月』を作らせた。そして其れを、月が欲しいと言う姫に差し出したのだ。姫は喜び、
しかし次の夜再び現れた月を睛にして、花は摘んでも次の年には元通りに咲くし、折れたユニコーンの角も暫く経てば生え変わるわ、
と微笑んだ。
赤真珠はそんな御伽噺の終幕を思い出した。今日、この冬の浜辺から『月』を探し出さなければならない。波で角が削れ、丸く
なった硝子の欠片の『月』を。深いオリエンタルブルゥの海に白波が穏やかに打ち寄せては戻り、打ち寄せては戻りを繰り返した。
白い砂浜に紅い外套が映える。スカァトで外に出た事を、赤真珠は後悔した。
この季節の月は蒼い。蒼い『月』なら、赤真珠にも浜辺で集めた経験がある。まるで海神に降り注ぐ月光が水に揺られて結晶化した
ような、そんな錯覚を覚えたからだ。翠色をした其れはきっと海の藍と月影の淡い黄色が混ざり合ったからで、透明な其れは透き通る
白い月の光で出来ているからだ、と。そして蒼い『月』の宝石は、最高に美しく珍らかな宝物だった。
湿った潮風が頬に髪を纏わり付かせる。長年この風に晒されてきた赤真珠の栗毛はごわごわとしたソバージュで、彼女の躰の内で
一番の誇りだった。海の傍で生きていける。其れはとても喜ばしい事だ。ふと、足元に光る欠片を見つけた。しゃがみ込み、手に
取って微笑む。親指の先、よりほんの少し大きめの『月』が、赤真珠の掌の上で寒風に吹かれて煌めいた。
赤真珠は鴎碧の手に蒼い『月』を握らせた。
「本当に、浜の松に引っ掛かっていたわ
貴方が眠った後に見つけたの」
鴎碧は其れを愛おしそうに握り締め、
「海の匂いがする」
と言って微笑った。