耳の遠いおじさんがやってる駐輪場に、二匹、金魚がいた。
長方形の藻がこびりついた割りと大きい水槽に、ぶくぶく太って下っ腹の突き出た赤と白の塊が、とても窮屈そうに重なりあっていた。
今は、一匹しかいない。

桜の木がなくなった。
つい半年前までは、幼稚園の前や神社の脇、歩道沿いに溢れかえっていたのに、
こう何もかも茶色くなって散ってしまっては一般人には見分けがつかない。
革靴の底と自転車のタイヤでアスファルトに塗り込められた元桜は、この儘土に還ったりするのだろうか。
雨に流れて終わりだろうか。

僕は片方が何時いなくなったのか知らない。
暫く金魚が其処にいる事さえ忘れていて、ある日鍵を掛けておくフックの横をちょっと見たら、
何故か金魚は一匹になっていた。

去年買った手袋をなくして、仕方がないからリストバンドで代用する。
あったかい気はするけど、本当にそうなのかは自信がない。
マフラーもコレも市松模様なのは何如にかした方が良いんだろうか。
寧ろ靴下も統一するべきだろうか。

多分死んだのだと思う。
多分死んだのは白っぽい方だと思う。

忙しくなかった頃の方が、遊んでいなかった気がする。
必要のない必需品を買い漁って、本当に忙しい振りをして、それで忙しいのを紛らわそうと云う人達ばかりメインストリート。
そんなモンなのだろうか。
そんなモンなのだろうか。

もう片方の赤い奴は、広くなった部屋に満足しているようだった。
時々聞こえる水の跳ねる音で、それまで僕が金魚の存在を忘れていたのは、二匹が全く音を立てずに其処にいたからだと気付いた。

電車は先頭車両以外乗らない。
がらがらの車内を進行方向後ろ向きに立って見渡すと、腹を空かせた芋虫がヒトを飲み込んでは吐き出しているのが分かる。
それとも各体節に一定数ある気口を出入りする空気塊だろうか。
いや、やはり駅員の腹を満たす為の、消化器官か何かだろうか。

それからまた暫くして、赤い彼はあまり泳がなくなった。
泳がないと云うよりは、動かないのだった。僕は、最初それは冬だからだと思った。
薄汚れた水槽に手を当てると、生き物を含んでいるとは思えない程冷たかった。

何ヶ月か爪を切っていない。
髪を耳に掛けるとき、耳の裏を引っ掻いた痕がついている。
リンパ液が固まらないのはいじくり回した所為だろうか。
右には傷がないのは右利きだからだろうか。

彼は水槽ごと死んでいるみたいだった。

神社の前には人影がない。
神がいるとは思わないけど、精霊ぐらいならいても良いと思う。
今境内に光ったのは住処を追われた狸の目だろうか。
行きに塵袋をつついていた、烏は生存競争の勝者だろうか。

やがて春が来て夏になっても、彼はちっとも動かなかった。
目の前で水槽の壁を叩いてやると、飛び起きるように跳ね上がったが、それだけだった。
パンパンになった白い腹を上に向けている事も多くなった。
どちらかと云うと、寝ているようだった。

革靴が足に合っていない。
痛まぬよう慎重に足元ばかり見て歩いていて、何かの拍子に空を見ると西の雲が燃えていた。
しかし天頂も青く浮かび上がるのは、太陽が未だ西の外れに残り火を灯しているからだろうか。
あの更に向こう側には、目覚める人がいるのだろうか。

秋にはついに、ひっくり返りっぱなしになった。
水槽をばんばん叩くと、剥き出しの目玉を一回りさせた。
それからエラを二回ぱくぱくつかせて、胸びれを揺らし、
最後に尾びれをくねらせて身体を起こした後、また引っ張られるようにゆっくりとひっくり返っていく。
その様子を、何度か僕は今度こそ死んだのかと思った。

雨の降っていない日に持ち歩く傘程面倒な物はない。
朝方の雨に畑の土も街路樹の葉も道端に雪崩れ込んで溶け出して、傘の先をそんな混沌の沼地に落とすまいと留め具辺りで握り締める。
この舗装の下にも泥が広がるのだろうか。
この岩盤の下で眠っていた蝉の子供は何如なっただろうか。

彼は、どうやら浮袋の病気らしかった。
お尻の方に浮袋が付いているからひっくり返ってしまうのだそうだ。
病気と云うからには、やはり彼は死ぬのだろうか。

それにしても頭痛が酷くて、吐き気は引かないし目眩も消えない。
昼休みに食べ損ねて帰り際に平らげた、弁当のカツと数の子が喉元まで来ている。
嗚呼、今夜のおかずは何だろうか。
舌を焦がす温度で揚げて飴色の雫に浸した甘く香るなよやかな豆腐だろうか。

おじさんは、金魚が二匹だった時より頻繁に水槽の水を換えるようになった。二匹より楽なのかも知れない。
でも水槽に薬を入れたりはしなかった。
僕が水槽の前に立っていると、叩いてご覧、寝ているだけだから、と言った。

節操なく増えたお隣さんちの子猫くんが、未だ開ききらない目で此方を伺っている。
親猫が慌てて子猫をくわえて引っ込むけれど、大丈夫、猫を喰う程飢えちゃいない。
親切な人間に餌を頂いて、増え続けた結果劣性遺伝子が台頭している、彼等も勝者なのだろうか。
生物としての使命を全う出来て満足だろうか。

そして冬が来た。
もしかしたら、彼は本当に寝ているだけだったのかも知れない。
病床に伏していたのかも知れない。

天気予報によれば今晩は雲一つない穏やかな夜で、物の本によれば月の東にレグルスが見える。
でも雨雲は思ったよりもしぶとかったらしく、一時期晴れた空も再び灰色に覆われる。
下弦の月はあの天上に輝いているだろうか。
認知し得ない物は其処にあるのだろうか。

彼は悲しんでいるように見えた。
物思いに身をあくがるなる魂が、浮袋に宿って空を目指しているように見えた。
一匹だけの水槽は冷たかった。とても。

夕食には元土と元草と元水ばかりが並んでいる、訳ではない。
人工加工品と遺伝子組み換え食品と、保存料着色料合成科学調味料其の他諸々。
揚げ豆腐に絡めるニックケイヴは夢を見るだろうか。
味噌汁から立ち込める滝廉太郎に花は咲くだろうか。

僕は毎日水槽をノックした。行きと帰りで二回ずつ。
その度に、彼は目玉とヒレを動かして、くるりと回ってまた眠る。
ああ、今日はまだ動く。今日もまだ動く。

モニターの向こうに彼等は今はいないらしい。
三年間あっていない人の事を考える。
あの子はどうしているだろうか。
あの子はどうしているだろうか。

僕は、彼が動かなくなるのを待っていた。

それにしても頭痛が酷くて、吐き気が引かないし目眩も消えない。
湯気に包まれて目を閉じると額の奥で血液が巡っているのが分かる。
このリズムに乗せる歌はないだろうか。
耳鳴りを伴奏に出来ないだろうか。

僕は彼が死ぬのを見たかった。彼の死が見たかった。
死になった彼を見たかった。
死が見たかった。

何もする気になれないのは、きっと痛みの所為だ。
参考書の文字は素通り、漫画の絵面は読み流し、CDを取りに行くのも面倒で、手を伸ばすのは二台の携帯。
一台からは音楽、耳障りな機械音も慣れてしまうとどうして心地よいのだろうか。
もう一台には打ち掛けの小説、今夜中には完結するだろうか。

家の前で死んでいたらしい猫は業者が片付けた。
車道で潰された烏はグシャグシャ過ぎて何が何だか判らなかった。
昆虫なんて同じ動物だとは思えない。
昔飼っていた兎も僕が起きる前に引き取られて行った。
屋台で貰った二匹の金魚だけが、僕の前で死を晒した動物だった。
それは死だった。
紛れもなく死だった。
あまりにも、哀れな程、間違いなく。

彼は彼女を守れなかった。
世界に平和が訪れた。
安い物語りに夢中になった、あの窓辺には戻れないのだろうか。
其の後勇者は処刑されはしなかっただろうか。

春になる前に僕はこの地を去る事になって、彼は相変わらず逆さまの儘生きていた。
最後の挨拶に強く水槽を叩いたら、あの凍えそうな世界の中で彼は宙返りをした。

さて今日も残り少なくなった。
終焉への階段を登る。
冷たい床の木は昔何処で生きていたのだろうか。
脱ぎ捨てた儘の制服は何時か土に還るのだろうか。

次に会うのは、きっと浮袋の目指した場所だろう。

寝付けない。
眠たいのに。
こんな時には考える、今日はあの夢の続きを見られるだろうか。
こんな夜には考える、明日はレグルスを見られるだろうか。

それまで彼は生き続けるだろうと、坂道を漕ぎつつそう思った。

それまで、お休み。















































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